静岡県掛川市。茶畑の中の細い道をさらに右に曲がった山道の先に「ねむの木こども美術館 どんぐり」がある。ネットで見たそのままドングリのような屋根が気になって、その場所を訪れてみた。芝生の中をゆるやかに上る一本の道。木の扉を恐る恐る開けて受付を済ますと、裏口に同じ道の続きがある。よく手入れされた裏庭をぐるりと上って、そのまま二階の展示室へとつながっている。車椅子でもそうでなくても、自然にその温かな静寂さに包まれてしまう。学園のみなさんの絵は色使いにも構図にも題材にも全く無理がない。何かに対して武装された理論も無ければ、威圧を目的とした権威ももちろん無い。そこに描きたい題材がある。教えてもらった描き方がある。筆先に完全に集中する。そのポイントまで導く宮城まり子先生の力は大きいのだけれど、引き出されたパワーに圧倒されてしまう。
義務教育とは学校に行かせる必要があるという、保護者に対しての義務であり、市町村に対しても学校を設置する義務があるというもの。本人が学校に行かなくてはいけないという義務ではない。しかし一般的には本人に課せられた国民の義務として学校に行かなければならないと考えていることも多いと思う。さらに最近は高校や大学も無償化してその流れを完全なものとしたいようにも見える。勝手気ままな学校法人も政府からのお金でコントロールできるので一石二鳥なのかもしれない。学校制度はもともと世界的な金融集団が企画し、世界中に慈善的な活動としても展開している。教育は文化の尺度ということだけれど、それは果たして善意からなのだろうか。企業や政府に黙って従う専門的な集団を養成し、その分業制度に一生をかける人を増やしているようにしか見えないのはなぜだろう。さらにその仕組みはなぜか軍隊に類似している。生まれてすぐに薬漬けにされて、学校で奴隷としての養成をされて、社会人になったら借金漬けにされて、使い終わったら、さらにビジネスのネタにされると言ったら口が悪すぎるかもしれないけれど。
ねむの木学園の美術館では宮城先生の絵も多かった。お母さんのような先生の絵。教えてほしいことがある。教えてくれる人がいる。本人が気がついていない潜在的な才能が引き出される機会になる。誰かが喜ぶから、何かを作る喜びが湧いてくる。この美術館を訪れてみて、この社会に対してちょっと諦めかけていた自分の中に、強くて小さな希望が灯るのを感じた。
