古い道を歩く。道端の大きな木の下に馬頭観音さんが祀られている。遠くに見えていた集落が近づいてくる。入口には門が立っている。庚申塚もある。ここから先は集落の中。目に見えない確かな境目はあるけれど、特に閉ざされているわけでもなく、フルオープンでもない。
道に面していくつもの家が並んでいる。どの家にも門柱があって、扉は無い。中を覗いてみると玄関の引き戸もガラリと開いていたりする。では自由に入っていける雰囲気かと言えば、それは全くない。そこには厳然としたエリアが存在する。集落の一番奥に神社がある。塀はなく集会所やマレットゴルフ場を伴っている。しかし、神社と集落とではその敷地の雰囲気は全く異なる。神社の境内は神社としてのエリアをしっかりと感じる。
何でもフルオープンにすれば良いわけではなく、何でもクローズにすれば良いわけではない。国で言えば国境。これも完全に開放する必要はないし、壁を張り巡らせて閉じこもる必要もない。フルオープンの完全自由化か、保護主義的な完全クローズかという争点には何かが足りない。それは誰かが意見を二分にするために意図的に設定されたお題なのかもしれないけれど、冷静に考えて、どちらかを選ぶ必要はない。エリアは閉まっていることもできるし、開いていることもできる。
門は不自由の象徴ではなく、接点という重要な意味を持つ。人は接点に触れて自分を解放することも自分を隠すこともできる。自分を隠したまま門の中に入ろうとしても門前払いを食らってしまう。自分を解放すれば門は開き、新しい創造を生み出すスイッチにもなる。もし門が無ければ、自分の解放もなく創造もない。すべてがオープンでフリーパスでは何のキッカケにもならない。世界中の国が新宿と池袋のように行き来できても、何も楽しくない。入口が開いていたからと何も考えずにゾロゾロ入ったら、口が閉じて網にかかることもある。あとは与えられた餌に群がるだけの、生け簀の中の魚になってしまうかもしれない。
長野県飯田市の白山社(里宮)