雑草の道 1

雑草と呼ばれる草たちを想う。少しのチャンスを絶対に無駄にしない。小さな土と少しの水とちょっとした陽光があれば、すぐに発芽し、すぐに生長し、すぐに花をつけて種を増やす。草たちはただそれを繰り返す。チャンスを見つけて発芽し、生長し、花を咲かせて、種を増やす。しかし、その間に根は硬い土をやわらかくして、菌を増やして、土の中の他の生物を豊かにする。他の植物が生えやすくする。そして、粗い土でも育つ草たちは、やわらかい土でないと育ちにくい草たちに代わっていく。草の次に木が芽生えはじめる。木の生長は草よりも何倍も速く、何も生えていなかった土はすっかりと森になっていく。草たちの葉は虫たちの食物となり、花は蜂たちの養分となり、種は小鳥たちの餌となる。枯れた草は土に戻り、さらに土を豊かにする。草はただその循環を繰り返す。多くを与え、与えきるままに死して、また生まれる。

空気も水も岩石も太陽光も、それだけではこの網の目のような生命の世界を作ることはできない。草は時間を操り、クールな波を温かく結びつけていく。それは草だけではない。生命と呼ばれるものすべてが、その仕事をするために存在する。クールな波を温かく結びつけていく仕事。温かくない仕事は生命の働きではない。冷たく一律化するもの。活力を消沈させるもの。怒りによって行動させるもの。恐怖で行動を導くもの。それらは生命のバランスを崩すものとして、生命全体の仕組みの中で、調整され捨てられてしまう。

バラ科の植物は生長が速く、他を抑制するものを発し、虫に食われて朽ちて土に還る。しかしバラ科の草たちは美しい花をつけて、美味しい実をつけて、鳥や人間を喜ばせる。毒キノコはどうだろう。彼らは食べられないように毒をまとう。そして、有機物の分解に専念する。もし、美味しいキノコばかりだったら、みんな食べられてしまい、分解の仕事はいつまでも続かないだろう。

社会の無毒化にはウラがある。世界基準をもとに、すべての行動に善悪が設定され、その行動によって点数が付けられる社会。誰かが点数を付けたい社会。そんなカルトで悪趣味な社会から抜け出す方法は意外と簡単。自らに付けられた点数やレッテルを捨ててしまうだけ。そんなものは私を少しも表してはいない。本に付けられたコードのようなもの。それは便利かもしれないが、何かの役には立つかもしれないが、その本の内容は少しも表してはいない。

もし全員にIDが振られてしまう社会になってしまっても、すべての行動が採点される社会になってしまっても、それは自分自身をほんの少しも表していないことを常に強く心に持とう。生命には点数は付けられない。生命には無限の可能性がある。たとえ、自分の上に大きな岩が覆いかぶさっていても、それを押し上げて、またはそれをうまくかわして、太陽に向かって伸びる力がある。その力の源泉は力強い根。頭の上を押さえられていても、足元には自由に根を伸ばせる土がある。地中に力強く根を伸ばそう。それはやがて他の根ともつながり、強固な根と菌のネットワークを築く。

網で覆われても、シートを敷かれても、お構いなし。上をしつこく刈られても気にしない。根こそぎやられた?無数の種を発芽させればいい。そんなものは生命の前には太陽の前を横切る小さな埃のようなもの。埃を一所懸命に掬い取って集めたって何の役にも立たない。風をおこして埃を吹き飛ばして、雑草たちのように、力強く太陽に向かって生長しよう。

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